今から二百三十年ほど前の十月二十三日、今の和歌山県那賀郡那賀町平山というところで生まれました。「オギャー」と生まれたとたんに、それまで吹き荒れていた嵐が静まり、まっ青な秋空に美しい雲が広がったので、お父さんの直道は、赤ちゃんに雲平という呼び名をつけ「この子は、ひとびとを幸せにする子にちがいない」と、ひとりごとを言いました。
華岡家は代々お医者さんで、村人たちの病気やけがを治してきました。お父さんの直道は、外科のお医者さんでした。
青洲は子供のころから、おじいさんやお父さんのところに来る患者さんを見ていて、この世にはお医者さんでも治せないむずかしい病気がたくさんあることを知りました。また「痛い、痛い」と言いながら死んでいく人も見ました。いつの頃からか、青洲は「 早く医者になって、みんながあきらめているむずかしい病気を治したい。」と思うようになりました。
青洲が二十二歳のときです。新しい医学を勉強するために京都に行かせてほしいと、 思い切ってお父さんに頼みました。
ところが、お父さんは、「うちにはそんなお金がない。勉強はさせてやりたいが、あきらめておくれ」と悲しそうに言いました。
直道には八人も子どもがいて、生活はとても苦しかったのです。障子のかげで、妹の「おかつ」と「こりく」がそれを聞いていました。そして、走り出て「 どうぞお兄さんを京都に行かせてあげてください。私たちがいっしょうけんめいはた織りをして、お金をつくります」 とお父さんに言いました。
そのころの京都には、ヨーロッパの医学や中国の医学を研究したえらいお医者さんがおおぜい 集まっていました。
青洲は京都に来てからたくさんの本を読み「私は日本の華陀(KADA)になりたい」と思うようになりました。
「華陀」は、今から千八百年ほどまえの中国のお医者さんの名前です。 頭の中や胸のおくにできたガンを手術で取り出して治した人なのです。 しかも「麻沸湯(MAFUTUTO)」という麻酔薬のようなものを使いましたので、患者さんは痛い思いをしないですんだというのです。
「そうだ、麻酔薬を使えば、むずかしい病気を痛い思いをしないで治せる、本当の麻酔薬を作ろう。そして日本の華陀になろう」青洲の心の中で、そんな思いが日に日に強くなっていきました。
京都で三年間を勉強して和歌山に帰った青洲は、近くの村の娘、「かえ」と結婚をしました。
「かえ」は、妹の「おかつ」や「こりく」と力を合わせ、ほうたいの布を織ったり、薬草を育てたりして、 よく青洲を助けました。 青洲は、薬代や手術代をはらえない人にも、分けへだてなく薬を出して治療しましたので、たくさんの患者さんが 来て忙しくなりました。
しかし、どんなに忙しくても麻酔薬を作るための薬草をさがして野や山を歩き回り、寝る間もおしんで研究を 続けました。草や花のなかには、人間を殺すほどの毒をもったものもあります。美しい花が咲くトリカブトにも、青洲がなんども試したマンダラゲにも、おそろしい毒がいっぱい含まれています。
また青洲は、手術のための道具も自分で工夫して作りました。
青洲は、麻酔薬を作るたびに犬や猫に飲んでもらって、ききかたを観察しました。薬がききすぎて死なせてしまったり、目が見えなくなってしまった動物もいました。
もっと悲しかったのは、麻酔薬が出来上がらないうちに、妹の「おかつ」がお乳に出来るガンで亡くなったことです。
「おかつ」は、青洲のために結婚もせずに、はた織りをして働いてきました。
このとき、三十一歳でした。青洲は、「 麻酔薬さえできていたら」と言ってくやしがりました。
それから何年かが過ぎたある日のことです。「かえ」は、青洲の大きな笑い声を聞きました。 三日間麻酔薬を飲んで眠っていた三毛猫の「まふつ」が目を覚まして、宙返りをしたのです。 「とうとう麻酔薬ができたのですね!おめでとうございます。」みな口々にお祝いを言って喜び合いました。
麻酔薬を作り始めて十五年がたっていました。それでも青洲は、まだ人間の手術に自分の作った麻酔薬を使えませんでした。猫と人間とでは薬のききかた が違うからです。そんな青洲の気持ちを知っているお母さんの「おつぎ」とおくさんの「かえ」が、かわるがわる青洲の 部屋をたずねてきては、「私に麻酔薬を飲ませて下さい」と言いました。
「私を使って試して下さい」と言いました。
青洲は、とても迷いましたが、二人に薬を試してもらうことにこころを決めました。
おかあさんとおくさんに、それぞれの年齢と体の調子を考えながら、薬を調合して飲んでもらいました。 ところが、何回も飲んで試しているうちに、「かえ」の目が見えなくなってしまいました。
でも、二人が飲んでくれたおかげで薬の量がわかり、麻酔薬が完成したのです。 「通仙散」となづけられました。青洲は、とうとう、「日本の華陀」になったのです。決心してから二十年かかりました。
青洲の評判を聞きつけて、日本中からお医者さんの勉強をしたい人が平山に集まって来ました。
平山は、まるでお医者さんの大学のようになりました。むずかしい病気をかかえた人も、うわさを聞きつけておおぜい集まってきました。
紀州のお殿様も「お城に来て私の医者になってほしい」と言って来ました。
しかし、青洲は「私は、村や町の人々の病気を治すために医者になったのです。お城にあがってしまったら、 みんなの病気を治せなくなります。」と言って断りました。
お父さんの直道が赤ん坊の青洲を抱きながらつぶやいたように「 みんなの幸せのために生まれてきた人」 だったのでしょう。
華岡家は代々お医者さんで、村人たちの病気やけがを治してきました。お父さんの直道は、外科のお医者さんでした。
青洲は子供のころから、おじいさんやお父さんのところに来る患者さんを見ていて、この世にはお医者さんでも治せないむずかしい病気がたくさんあることを知りました。また「痛い、痛い」と言いながら死んでいく人も見ました。いつの頃からか、青洲は「 早く医者になって、みんながあきらめているむずかしい病気を治したい。」と思うようになりました。
青洲が二十二歳のときです。新しい医学を勉強するために京都に行かせてほしいと、 思い切ってお父さんに頼みました。ところが、お父さんは、「うちにはそんなお金がない。勉強はさせてやりたいが、あきらめておくれ」と悲しそうに言いました。
直道には八人も子どもがいて、生活はとても苦しかったのです。障子のかげで、妹の「おかつ」と「こりく」がそれを聞いていました。そして、走り出て「 どうぞお兄さんを京都に行かせてあげてください。私たちがいっしょうけんめいはた織りをして、お金をつくります」 とお父さんに言いました。
そのころの京都には、ヨーロッパの医学や中国の医学を研究したえらいお医者さんがおおぜい 集まっていました。
青洲は京都に来てからたくさんの本を読み「私は日本の華陀(KADA)になりたい」と思うようになりました。 「華陀」は、今から千八百年ほどまえの中国のお医者さんの名前です。 頭の中や胸のおくにできたガンを手術で取り出して治した人なのです。 しかも「麻沸湯(MAFUTUTO)」という麻酔薬のようなものを使いましたので、患者さんは痛い思いをしないですんだというのです。
「そうだ、麻酔薬を使えば、むずかしい病気を痛い思いをしないで治せる、本当の麻酔薬を作ろう。そして日本の華陀になろう」青洲の心の中で、そんな思いが日に日に強くなっていきました。
京都で三年間を勉強して和歌山に帰った青洲は、近くの村の娘、「かえ」と結婚をしました。
「かえ」は、妹の「おかつ」や「こりく」と力を合わせ、ほうたいの布を織ったり、薬草を育てたりして、 よく青洲を助けました。 青洲は、薬代や手術代をはらえない人にも、分けへだてなく薬を出して治療しましたので、たくさんの患者さんが 来て忙しくなりました。しかし、どんなに忙しくても麻酔薬を作るための薬草をさがして野や山を歩き回り、寝る間もおしんで研究を 続けました。草や花のなかには、人間を殺すほどの毒をもったものもあります。美しい花が咲くトリカブトにも、青洲がなんども試したマンダラゲにも、おそろしい毒がいっぱい含まれています。
また青洲は、手術のための道具も自分で工夫して作りました。
青洲は、麻酔薬を作るたびに犬や猫に飲んでもらって、ききかたを観察しました。薬がききすぎて死なせてしまったり、目が見えなくなってしまった動物もいました。
もっと悲しかったのは、麻酔薬が出来上がらないうちに、妹の「おかつ」がお乳に出来るガンで亡くなったことです。
「おかつ」は、青洲のために結婚もせずに、はた織りをして働いてきました。
このとき、三十一歳でした。青洲は、「 麻酔薬さえできていたら」と言ってくやしがりました。それから何年かが過ぎたある日のことです。「かえ」は、青洲の大きな笑い声を聞きました。 三日間麻酔薬を飲んで眠っていた三毛猫の「まふつ」が目を覚まして、宙返りをしたのです。 「とうとう麻酔薬ができたのですね!おめでとうございます。」みな口々にお祝いを言って喜び合いました。
麻酔薬を作り始めて十五年がたっていました。それでも青洲は、まだ人間の手術に自分の作った麻酔薬を使えませんでした。猫と人間とでは薬のききかた が違うからです。そんな青洲の気持ちを知っているお母さんの「おつぎ」とおくさんの「かえ」が、かわるがわる青洲の 部屋をたずねてきては、「私に麻酔薬を飲ませて下さい」と言いました。
「私を使って試して下さい」と言いました。
青洲は、とても迷いましたが、二人に薬を試してもらうことにこころを決めました。
おかあさんとおくさんに、それぞれの年齢と体の調子を考えながら、薬を調合して飲んでもらいました。 ところが、何回も飲んで試しているうちに、「かえ」の目が見えなくなってしまいました。
でも、二人が飲んでくれたおかげで薬の量がわかり、麻酔薬が完成したのです。 「通仙散」となづけられました。青洲は、とうとう、「日本の華陀」になったのです。決心してから二十年かかりました。
青洲の評判を聞きつけて、日本中からお医者さんの勉強をしたい人が平山に集まって来ました。
平山は、まるでお医者さんの大学のようになりました。むずかしい病気をかかえた人も、うわさを聞きつけておおぜい集まってきました。紀州のお殿様も「お城に来て私の医者になってほしい」と言って来ました。
しかし、青洲は「私は、村や町の人々の病気を治すために医者になったのです。お城にあがってしまったら、 みんなの病気を治せなくなります。」と言って断りました。
お父さんの直道が赤ん坊の青洲を抱きながらつぶやいたように「 みんなの幸せのために生まれてきた人」 だったのでしょう。
わかやま絵本の会 郷土絵本NO。40「華岡青洲」より 発行日1995年12月1日 文/戸西葉子 絵/芝田浩子
〒640 和歌山市松江西3-5-4 松下方 TEL 0734-52-4341
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問い合わせ連絡先
医聖 華岡青洲顕彰会 事務局
〒649−66 和歌山県那賀郡那賀町名手市場146-4 (那賀町教育委員会内)
TEL(0736)75-3111 FAX(0736)75-3117
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紀州が生んだ華岡青洲の物語は、 わかやま絵本の会から1995年12月1日発行されています。
文 戸西 葉子/絵 芝田 浩子 詳しくは、〒640 和歌山市松江西3−5−4 松下 迄
TEL・FAX 0734−52−4341
文 戸西 葉子/絵 芝田 浩子 詳しくは、〒640 和歌山市松江西3−5−4 松下 迄
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